泉健太の歩み

1974年7月29日(寅年しし座)、北海道にて生まれる。
実家は3世代の7人家族。3人の兄姉の下4番目の末っ子でした。
小さい頃からきかん坊。小中高は、兄の影響を受けて野球に打ち込みました。この頃から歴史や社会問題に関心を持っていました。

1993年(18歳)
京都の立命館大学法学部政治行政コースに入学。大学では、弁論部に所属しつつ、災害・環境・街づくりボランティアや政治啓発運動に取り組み、立命館大学法学部長賞受賞。

1998年(23歳)
立命館大学法学部を卒業し、参議院議員の秘書に。市民が主役の政治をつくるべく現場で取り組みを続ける。

2000年(25歳)
民主党からの出馬要請を受け、京都3区から衆議院総選挙に立候補。知名度、組織、資金のすべてがない中での選挙でしたが、沢山の同世代のボランティアと地域の方々に支えられ5万7536 票を獲得。現職候補に迫るも、次点惜敗。

2003年(29歳)
3年3ヶ月の再挑戦活動を経て、第43回衆議院総選挙に再度の挑戦。
地域密着の地道な活動によって、前回を大きく上回る8万4052票を獲得。初当選を果たす!1期目は目標としていた10回以上の国会質問を達成。以降も様々な分野で質問を続け、延べ回数は250回以上に。議員立法も 24本を提出しています(令和3年 12月31日現在)

以降、2005年、2009年、2012年、2014年、2016年(補選)、2017年、2021年の衆議院選挙に連続当選。
民主党青年局長、内閣府大臣政務官、民進党組織委員長、議院運営委員会筆頭理事、立憲民主党政調会長を経て、2021年11月に党代表に就任。

党政調会長(当時)としてコロナ対策政府与野党連絡協議会で議論
議運理事(当時)として、本会議での議場内交渉係を務める
内閣府大臣政務官(当時)として、仙谷大臣と子育て支援施設を訪問

役員を務める超党派の議員連盟(議連)等

  • 過労死等防止について考える議員連盟
  • 食品ロス削減及びフードバンク支援を推進する議員連盟
  • 全国災害ボランティア議員連盟
  • 自然災害から国民を守る国会議員の会
  • 日本ウクライナ友好議員連盟
  • 日本ニューギニア友好議員連盟
  • 学童保育の抜本的拡充を目指す議員連盟
  • 自転車活用推進議員連盟
  • チャイルドライン支援議員連盟
  • 子どもの未来を考える議員連盟
  • 共同養育推進議員連盟
  • ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会

など

泉健太とは?

当事者の声に寄り添い、社会を変える

これまでの活動の中で、地域を歩き、全国を回り、様々な職種・立場の皆様の声を伺ってきました。国会議員としてそうした声を現行法の運用改善や議員立法につなげてきました。
配偶者を『過労死』で失った方から、「悲惨な死を繰り返さない社会を」との声を受け、全政党に協力を求め成立にこぎつけた『過労死防止対策推進法』。全国の子育て中の皆様から要望を受けた『3人乗り自転車の解禁』。利用者の皆様の利便性を高めた『電動アシスト自転車のアシスト率向上』。など、今後も当事者の声に寄り添い、社会を変えてまいります。

ボランティア・非営利活動を大切にする

立命館大学在学中(1995 年)に発生した阪神大震災で、被災地支援活動に参加するなかでボランティア活動の大切さを学び、以降様々な活動に参加をしてきました。『人のために、できることを』。支援される側が助かるだけでなく、支援する側にも感動や、尊い学び・経験が生まれます。
私もダウン症の子ども支援、チャイルドライン、犯罪被害者支援、地球温暖化防止活動、ホームレス支援、日本海ナホトカ号重油流出事故へのボランティアバス派遣、新潟中越地震への支援物資運搬、各地の水害被災住宅復旧などに従事し、東日本大震災では、与党震災ボランティア室筆頭副室長として、ボランティア団体の現地活動を円滑にする政府との調整役を務めました。消防団員としても 15 年以上活動を続けてきました。
これからも『ボランティア・非営利活動』を支援し続けます。

東日本大震災の被災地や避難所を回り、要望を政府に届ける
犯罪被害者支援の古本を集めるホンデリング活動にて

歴史を直視し、平和をつくる

国会議員になる前、フィリピンルソン島の奥地で日本兵の慰霊碑を目にし、いまだ多くの御遺骨が本土に帰還していないことに衝撃を受け、以降、厚生労働省と遺族会、JYMA(日本青年遺骨収集団)による戦没者遺骨収集に参加してきました(私は硫黄島、ニューギニア、フィリピンなどで活動)。祖国を想い、過酷な戦地で命を落とされた先人の無念を風化させてはいけないと、現在も関わり続けています。

JYMA(日本青年遺骨収集団)派遣報告書より